空を見上げると、うろこ雲が広がっていて、
その前をトンボが1匹、通り過ぎていました。
「そういえば、トンボの目って、複眼だったよね」
鷲田清一氏が、複眼について書いていたことを思い出しました。
アイデンティティは、一つに絞る必要はなく、
複数あっていい。というか、複数あったほうがいい。
複数あれば、そのうち一つが弱ってきても、
あるいは外されても、残りのアイデンティティを丁寧に
生きていけば、「わたし」はたぶんびくともしない。
逆に、一つのアイデンティティしかなければ、
それが外されれば、「わたし」も崩れてしまう。
わたしがここで言っているのは、「一つのことに集中するな」ということではない。
一つのことを集中している時でも、複眼をもて、ということだ。
一つの光を当てるより、二つの光を当てたほうが世界はより立体的に
浮彫になってくるのと同じように、
一つの事業をおこなうにも、それを内からと外からと逆向きの2方向から
見る法が、進むべき道がはっきり見えてくる。
(中略)
そういう複眼を独りで磨くのは難しい。
複眼がもてるかどうかは、じぶんとは別な生き方、ものの見方をしているひとたちと、
どのくらい深くて、幅広いつきあいをしているかにかかっている。
「くじけそうな時の臨床哲学クリニック」(鷲田清一・著、ちくま学芸文庫)より。
複眼をもつこと、複眼を磨くことは、独りでは難しい。
誰かの視点が、自分の複眼となり、
逆に、自分の視点が、誰かの複眼に役立つことが
あるかもしれないということかもしれません。
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