2018年3月30日金曜日

読書するのは、意識髙い系?


#ビリヤニ#西荻窪

「読書会って、ちょっと“意識高い系”な感じがするんですよね。
真面目な人たちが集まって、作家とか、作品とか、あれこれ難しく語っちゃったり。
知らないことがあると馬鹿にされそうな気もするし…」

そんなふうに思っている人、結構いそうな気がします。

ふむ、ふむ、確かに。
私も、初めて「読書会」に参加した時は、緊張したよ。
読書会にも、いろいろなタイプがあるので、
読書が好きなら、自分が居心地のよい読書会を探してみるのがいいと思う。

村上春樹さんが、著書「若い読者のための短編小説案内」あとがきに、
本の読み方について、次のように書いていました。

本の読み方というのは、人の生き方と同じである。
この世界にひとつとして同じ人の生き方はなく、
ひとつとして同じ本の読み方はない。
それは、ある意味では孤独な厳しい作業である―生きることも、読むことも。
でもその違いを含めた上で、あるいはその違いを含めるがゆえに、
ある場合に僕らは、まわりにいる人々のうちの何人かと、
とても奥深く理解しあうことができる。
気に入った本について、思いを同じくする誰かと心ゆくまで語り合えることは、
人生のもっとも大きな喜びのひとつである。

こんな文を引用したら、やっぱり“意識高い系”と思われてしまうのかもしれないけれど。
いろいろな本を読むうちに、
意識の高かろうが、低かろうが、どちらでもよいってことになるんじゃないか。
と思ったりしています。

#意識高い系#読書#読書会#村上春樹

2018年3月28日水曜日

自分を癒す方法



スランプに陥ったり、やる気がでないとき、ありますか?
何らかの理由で、気分が落ち込んでしまったり、
落ち込んでいる理由さえ分からなくなるとき、ありますか?

マイナスからプラスに切り替えるのには、心のスイッチを入れるような作業が必要になります。

旅行や引っ越しなど、場所を変えることは、切り替えのスイッチにしやすいですし、

音楽を聴いたり、運動したりするのも、その作業に集中することで、切り替えのスイッチになりますね。

村上春樹さんのエッセイ「若い読者のための短編小説案内」によると、
書くことも、癒しのスイッチになるそうです。

誤解を恐れずに言ってしまうなら、あのときは物語を書くことによって、心の特定の部分を集中的に癒すことができます。精神的な筋肉のツボのようなところを、ぎゅっと効果的に押さえることができます。それは、身近く深い夢を見ることに似ています。

村上春樹さんは、あまりスランプになった経験がなかったが、何かを書こうという気持ちが沸いてこない時期があった。気分の切り替えに役立ったのは、短編の小説を書くことだったそうです。

何のために文章を書いているのか?と考えると
それは、やはり、自分のためです。
自分の頭の中を整理するという、個人的な目的で書いている。
そして、誰かに伝えたいことがあり、口頭では伝えにくいので、文書にまとめる。
ただ、誰かに読んでもらうことを前提に書いた文書であっても、書くことを通じて、自分の価値観や考え方、世の中の見方などを知ることが多くあります。

書くことが、自分を癒す方法の一つになる理由がよく分かります。



#村上春樹#エッセイ#若い読者のための短編小説案内#読書#感想文

2018年3月19日月曜日

平昌パラは、終わったけれど。なんだか空しい?ちょっと心配?もやもやしてる





平昌パラリンピックは、終わったけれど・・・

なんとなく、空しい。

空しいというよりも、このままだとやばいなという感覚と言ったらよいのかもしれません。

一方で、やっぱり、こんなものかなという、変に冷静に受けとめる気持ちもあったりします。

次のパラリンピックは、2020年の東京パラリンピックだと思うと、
なんだか、いろいろと考えてしまいました。

平昌オリンピックの期間中は、通勤の電車のなかでも、羽生君とか、カーリング娘とか、話題になっている感が漂っていましたが、パラリンピックの期間中は、残念ながら、そうした話題を耳にすることがありませんでした。

NHKは「パラリンピックタイム」という番組を放送していました。
競技のポイントを分かりやすく解説していて、これを見たうえで実際の競技を見ると、
面白さが分かるだろうなぁと思いながら、観ていました。
ただ、スポーツ番組の一部として、パラリンピックの競技に触れるのではなく、
パラリンピックのための番組だと思うので、「なにげなく、見た」という人より、「見ようと思って、見た」という視聴者が多かった番組ではないかと思っています。

民放では、スポーツニュースのなかで平昌パラについて触れていましたが、
日本代表の選手がメダルを獲れたか、獲れなかったかという結果と、選手のコメントの一部を伝える短信扱いのものが多いので、その競技や選手に興味・関心があり、ある程度、知識が頭に入った人でなければ、さらっと流れてしまい、ほとんど記憶に残らないものだと思います。

そんなことを、パラリンピックにはあまり関心がない友達に話したら、

「パラリンピックの競技って、マイナースポーツと同じだと思うよ」と一言。

「あぁ、そうか」と、私は、腑に落ちました。

例えば、一般のスポーツで考えてみると、セパタクローという競技。
日本ではまだまだマイナーだと思います。

観戦しに行ったら、面白いかもしれないし、はまるかもしれません。

でも、私個人は、セパタクローを観戦した機会はなく、身近にセパタクローをしている選手やサポーターがいるわけでもありません。

面白さを知らないし、経験もないので、あえて見ようとは思わない。

スポーツニュースで、セパタクローの情報があっても、「ふーん、そんな大会があったんだな」と思う程度で、数秒後には、忘れている気がします。

「セパタクロータイム」みたいな番組があっても、あえて選んで観るかどうか・・・。
他の雑用と天秤に掛けるかもしれません。

マイナーから、メジャーに昇格すれば、観る人は増えるでしょうか?
例えば、プロのリーグがある、野球やサッカー、バレーボールにバスケ。

メジャーな競技になると、それなりに継続していくだけの仕組みがないといけなくなりそうです。

競技団体の運営とか、各チームのスポンサーなどなど、お金や人、組織のマネジメントが要りそうです。パラリンピックの競技が、そうした仕組みに馴染むのか?

「メダルがすべてじゃない」けれど、結果はやはり大事だと思うし、
メダルを獲得できる選手を輩出するには、競技人口の裾野を広げることと(横軸)、
能力のある選手を強化すること(縦軸)の両方が必要なはず。
 「知ってもらうこと」「気軽に競技を始められること」「競技を継続できる環境があること」などなど、必要なことがいろいろあって、そんなん、2020年までの時間で、とてもとても時間が足りなさそうと思います。

いろいろ考えてみて、答えが出ないことも多いけれど、

2020年のパラリンピックが終わった時に、空しい気持ちにはなりたくない。

じゃ、どうしたらいい?と自分に問い続けています。

#パラリンピック
#マイナー競技









2018年3月16日金曜日

暇と退屈を混同していました。暇と退屈は違うと知り、哲学の解説を読んでみたら、そもそも退屈って問題なの?と思えてきました。#暇と退屈の倫理学#國分功一郎



「あ~、なんか最近、暇なのよ」
「忙しいより、いいんじゃないの?。暇なほうが」
「う~ん、でも、なんか退屈でさ」
「ああ、暇が問題なんじゃなくて、退屈が問題なんだね」
「え?どういうこと?」

暇で、退屈。
誰でも、一度や二度は、そんなことを感じたり、考えたりした経験があるのではないでしょうか?

『暇と退屈の倫理学 人間らしい生活とは何か?』(國分功一郎・著、朝日出版社)は、
「暇」と「退屈」について、哲学を用いて、解説を試みた本です。

まず、「暇」と「退屈」という二つの言葉は、しばしば混同して使われるが、同じものではないということ。

「暇」とは、何もすることがない、する必要がない時間を指している。つまり、暇は、客観的な条件に関わっている。

これに対し、「退屈」とは、何かをしたいのにできないという、感情や気分を指している。

それは人の在り方や、感じ方に関わっており、主観的な状態を示している。
こんなふうに暇と退屈を定義したうえで、さまざまな角度から考察しています。

哲学者の著書や指摘を紹介しながら、
一つの場所に住む=定住することや、経済の発展と仕事の仕方、消費行動が、暇や退屈に関係していることを、分かりやすく、解説しています。

「暇」や「退屈」って、自分自身に原因があるように思いがちですが、実は、これまでの歴史や、社会の経済の仕組みのなかで、生み出されたものなんだなと思えてきます。

「暇」な時には、「何かしないといけない」という意識が頭に埋め込まれていて、
「退屈」とつながり、何かを探し求めて、行動するように促されている。

そんなふうに捉えてみると、「その退屈って、本当に問題か?」と疑わしくなってきます。

「退屈」というけれど、なぜ、「退屈」だと思うの?
自分が何をしたら、どういう状態になったら、「退屈」が無くなるの?
自分がしたい「何か」が見つからないなら、あえて、何もしなくていいじゃないの?

自分のなかにある「暇」や「退屈」をいったん整理して、冷静に眺めてみると、
自分の生き方や価値観が、さまざまなことに影響を受けていることが分かります。

そのうえで、どう生きるか。ということを、考えるための一冊です。

#暇と退屈の倫理学
#國分功一郎
#哲学
#生き方
#働き方

2018年3月14日水曜日

優しく、居心地よく、心がすーっと癒されるよう

Bix&Marki(ビックス&マルキ)
音楽が聴きたい!生演奏で!

できたら、優しい音色で、居心地よく、すーっと心が癒されるような曲がいいなぁ・・・。
年末年始から、ずーと心の片隅にあった思いが、叶いました。
FBのお友達のつながり、BixMarkiさん、
お会いするのも、曲を聴くのも初めてだったのですが、
会場が、銀座スワンカフェだったので、たぶん、ハズレないと確信。
仕事の帰りに、ぶらりと足を運びました。
とっても、優しい歌声で、そよ風みたいな感じがしました。
WEBサイトには、詩的と紹介されていたのですが、ちょっと納得。
これから四国、関西、伊勢などを巡るツアーを展開されるそうです。
各地の会場となっているお店も、なんだか良さげです。
場が、音楽を選ぶのか。
人が、音楽を選んで、集うのかもしれません。お近くの方は、ぜひ。

#銀座スワンカフェ

Bix&Marki

2018年3月13日火曜日

面白い大人になれるかもしれない


20代、京都で暮らしていた頃、
毎週金曜日の夜になると、西陣へ足を運んでいました。

目的は、当時、金曜日の夜に西陣で開かれていた「金曜夜会」です。

ある会社の駐車スペースが会場として提供され、
西陣織の関係者や若い建築家、大学生などがそこに自由に出入りし、
飲んだり、食べたり、雑談していたのです。

空家になっていた西陣の町家をリノベーションして、若いアーティストが借りている。
その活動に関係する人が、西陣の金曜夜会に集っている。
そんな情報を耳にして、足を運んだことがきっかけでした。

「金曜夜会」に集っていた人たちは、年齢も職業もさまざまで、
西陣織や建築のお仕事の話はもちろん、
京都の文化やしきたりなどのお話はとても新鮮でした。

何よりも、私にとって印象的だったのは、「面白い大人がいる」ということ。

「社会人になったら、家と職場の往復が中心で、あと少し余裕ができたら趣味でもできたらいいのかな・・・」という大人のイメージしか抱いていなかった私には、

「あ、家と会社の往復だけじゃなくていいんだ」

「家も仕事も大事だけど、やる気さえあれば、面白いことは、いろいろできるんだ」

という発見がありました。

いわゆる、「サード・プレイス(第3の場)」

「家」「職場」のほかに、自分の「居場所」をつくるという選択肢があることを、
当時の西陣に集っていた皆さんに、教えていただいたように思います。

「私も、面白い大人になれるかもしれない」

そんな希望を抱くことができたのは、西陣で出会えた方のおかげだと思います。

時は流れましたが、

私も少しは「面白い大人」になれたかな。と思ったり、

まだまだ、もっと、面白くなれるような気もします。


先日、西陣でお世話になった方にお会いすることができました。

久しぶりにお話させていただいて、あの3年間、とても濃い時間だったことを、
改めて思います。

SNSのおかげで、つながりを保てる時代。

そして、人とのご縁に感謝。

#西陣#人との出会い 

2018年3月7日水曜日

自己啓発本って、どれも書いてあることが同じ。そう思った時、あえて手に取って、自分を見直した一冊。#働く大人のための「学び」の教科書



自己啓発の書籍って、どれも似たり寄ったり。
書いてあることは、基本的なことで理解はできるけど、
数冊読んでいると、「これって、前にどこかで読んだことある」と思ってしまう。
新しい発見が少ない気もする。

そんなこと、ありませんか?

東大の中原淳先生の書籍『働く大人のための「学び」の教科書』は、
タイトル通りの書籍。
すでに社会に出て、働いている人のために「学び方」を教えてくれる本です。

中原先生によると、大人の学びとは、『自ら行動するなかで、経験を蓄積し、次の活躍の舞台に移行することを目指して変化すること』

人生100年時代といわれる時代になり、
社会環境の変化や市場のニーズの変化に対応すること必要になっています。
そのために、大人になっても学びつづける必要があるけれど、その「学び方」をどうすればいいか。本書は、その指針を示してくれています。

本書の中で指摘されているポイントは、
よく考えてみると、当たり前のことかもしれません。

例えば、経験を学びに変える「振り返り」。
経験は、そのままにしておいては、学びにつながらないため、「振り返り」が重要になるのですが、その際に、3つの問いに考えを巡らすことが重要と説明されています。

3つの問いとは、
What?(過去になにが起こったか)
So What?(どのような意味があったのか。何が良くて、何が悪かったのか)
Now What?(これからどうするのか?)
というもの。

自分で自分に問うことはなかなか難しいので、まず、他人から、SBI情報(Situation:状況、Behavior:態度、Impact:成果)をフィードバックしてもらう方法があります。つまり、「どこで、どんな時に、どんな行動をしたことが、良かったのか悪かったのか」を指摘してもらいます。そのSBI情報のフィードバックを材料にして、自分で振り返りの問いかけをしてみることが重要ということでした。

他の自己啓発本にも、似たような内容が書かれているかもしれませんが、
この本を読んで改めて気がついたのは、以前に手に取った本と似たような記述があろうがなかろうが、今、手に取っている本から、自分自身がよりたくさんの事柄をインプットできることが大事ということ。

似たような内容でも、内容の整理の仕方や、ポイントの出し方は、同じではありません。
本書は、「大人の学び方」が体系的に整理されて解説されていますので、頭の中で、ぼんやり置いてあったことが、引き出しに整理整頓されたような気持ちになりました。

働く大人のための「学び」の教科書


2018年3月5日月曜日

この本に、呼ばれたのかもしれない。



3.11」は、特別な意味を持つ数字の組み合わせになりました。

「東日本大震災」が起きたあの日からです。
あの日以前の「3.11」は、
個人的に誕生日だとか、記念日とかでなければ、
その前日の「3.10」と、その翌日の「3.12」と、
それほど変わらない位置づけの日でした。

それが、あの大震災が起きてから、特別な日になってしまいました。

その特別な日を1年に1度、迎えることになりましたが、
年を重ねるたびに、何かが少しずつ変わっているように思います。
変化は、あの震災に対する自分の受けとめ方かもしれないし、
あの時感じていたことを鮮明には思い出せないような記憶の薄れかもしれません。

そんなことをつらつらと考えていた時に、

長野県上田市に遊びにいくことがあり、
大好きなブックカフェNABOの棚で、視界に飛び込んできたのが、
この本。高橋源一郎さんの著書「非常時のことば 震災の後で」です。

「あ~ぁ、私、たぶん、この本に呼ばれているわ」

と思ってしまいました。即、購入。

本書は、震災の前と後で、変わったもの(変わらないもの)について触れており、
自分が「考える」こと、
自分が「書く」こと
おそらく、それは、自分が「生きる」ことにつながること、
改めて、考えさせられる本でした。

「非常時」は、震災ばかりでありません。

ある時、ある場所では「戦争」であり、「水俣病」などもあります。

この本では、石牟礼道子さんが、水俣病の関係者、地域の人々について丁寧に聞き取りをされて綴られた文章の「美しさ」についても解説されています。

先日、お亡くなりになったニュースを耳にしたこともあり、石牟礼さんのお仕事の素晴らしさを、高橋さんの解説でよりよく理解できたことも、「あぁ、やっぱり、私は、この本に呼ばれたのだわ」と思った理由です。

出会いは自分でつくるものとか、計画的偶然性とかいう言葉もありますが、やっぱり、「呼ばれた」というのがしっくりきます。
 

非常時のことば 震災の後で (朝日文庫)