2018年4月9日月曜日

論理の呪縛から、逃れられますか?



沢木耕太郎さんの「深夜特急 4 シルクロード」のなかに、
「貧しい人に小銭を恵まない」と決めていたことについて、
ある出来事をきっかけに、「余計な理屈をつける必要はない」と気がつくエピソードが出てきます。

「小銭を恵まない」と決めていたのには、
著者なりの理由があったのですが、
その理由(論理)で、著者自身が縛られていたと気がつくのです。


なぜ、「恵むまい」などと決めなくてはいけないのだろう。
「やりたい」と思う時にやり、恵みたくない時には恵まなければいい。
もし、恵んであげたいと思うのなら、かりにそれが最後の十円であったとしても恵むがいい。そして、その結果、自分にあらゆるものがなくなれば、今度は自分が物乞いをすればいいのだ。誰もが恵んでくれず、飢えて死にそうになるのなら、そのまま死んでいけばいい。自由とはおそらくそういうことなのだ…。
深夜特急〈4〉シルクロード (新潮文庫)
より)

『こうしなければならない』『こうであるべき』という論理は、
自分の価値観や信念と言い換えてよいかもしれません。

価値観や信念は、善悪や良し悪しを判断する指標となるものなので、
それらを、まったく持たずに生きていくことは、難しいですね。

でも、沢木さんのように
価値観や信念を固定する必要性はないということを、
頭の片隅にとめておいてよいかもしれません。

心の底で自分が求めているものと、
「こうしなければならない」「こうであるべき」というものがズレている。
そんなこともあるからです。

論理に縛られていることに気が付くきっかけは、
自分とは異なる価値観や信念に基づいて行動する他人との出会いだったり、
人間関係の軋轢だったりしますが、

それらについて、自分の持っている論理を疑う「チャンス」だと考えてみたいものです。



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